道営高島団地と鴎ヶ丘タウン
5. 道営高島団地と鴎ヶ丘タウン

塩谷・手宮を基部として北東に突出する高島岬は、主峰371メートルの赤岩山、続いて279メートルの下赤岩山の峻険な断崖が海に迫り、弁慶岩・ 窓岩等の奇岩に富み風光絶佳、古来より民間信仰の霊山として伝説に富む地域であるが、その山裾は標高50〜110メートルの丘陵地区と なっている。赤岩2丁目、祝津1丁目、高島5丁目の一部はこの中に入る。

大正3年(1914)、本田沢 ― 祝津間の山道開削以来、馬車の通行も盛んとなったが、昭和23年(1948)9月、中央バスが祝津線(小樽駅前 ― 祝津) の梅ヶ枝町 ― 祝津間の許可を得てバス運行以来、とみに利用者が多くなり、道路付近も次第に開発されていった。 特に、昭和30年代後半より40年代前半にかけて国道5号線沿線地一帯の工場、事業所、住宅街化が飽和点に達し、更に毛無山麓の望洋台、 赤岩山麓の丘陵地帯もまた住宅地の対象となる。既述の「ブライトタウン赤岩」建設に続いて、 昭和53年(1978)には「道営住宅」が立ち並ぶ。

即ち、高島5丁目の小学校南方の台地を、『道営高島団地』として13棟(520戸)の住宅が建設された。更に隣接の祝津1丁目に 『祝津団地(鴎ヶ丘タウン)』にも10棟(400戸)が建てられる。昭和27年(1952)、当時のPTAが教職員厚生のため、 教員住宅として4棟8戸を建設したころはほとんど無人の境(場所)で、入居した教職員はその地の草分け人的存在であったが、 その後、隣接赤岩2丁目と共に住宅街として伸びつつあった実状に立っての企画だったのであろう。 それによって高島5丁目簡易郵便局も立つ。

これによって高島町は、基幹産業としての「水産物の生産・流通の拠点街」として性格を守りながら、「小樽市北部の住宅街」の性格を 併せ持つに至ったのである。

高島子ども風土記(発刊:昭和49年)  発刊当時 高島小学校2年 KY様
わたしの、ひいじいさんは、大正2年に赤岩にきて、すみついたといいます。その時のしごとは、さかなかすをつくっていました。 高島と手宮のはまから、さかなをかってきて、それから小樽でかまぼこをつくっている家から、さかなの頭とほねを買ってきて、それを 大きな大きな、かまでにて、それをしぼってから、こんどは外のかんばで、むしろの上にひろげてほします。雨がふると、むしろを まるめて、大きなそうこにしまいます。それはぜんぶ、人の手と馬車でやっていました。 ― 中略 ― しょうわ6年に、 さかなでソーセージを日本で一ばん先につくりだしたそうです。

高島子ども風土記(発刊:昭和49年)  発刊当時 高島小学校3年 MT様
赤岩海岸の上にすんでいるしんせきのおじいちゃんに聞いた話 ― 大正の終わりごろの赤岩は、本田ざわとよばれていました。 そのころの家は、70件ぐらいで、すんでいる人は、二百人ぐらい、ちょうど今ののうかのように、家が点々としていたそうです。 赤岩をひらいた人は、松田さんという人で、今の赤岩神社も松田さんがたてたものだそうです。赤岩にすむほとんどの人は、 ブタのせいさん、馬で運ぱん、魚かすのしょりなどの仕事をしていました。朝は四時頃におき、夜は八時頃まではたらいて いたのだそうです。今の赤岩マンションや、ことぶき湯などの大きなたて物がある所は何もなく、広々とした魚かすのほしばでした。 道路は石ころのでこぼこ道で、まわりはほとんど草わらで、小鳥がさかんにないていたそうです。 今のふたまたから山口商店までが赤岩本通りとよばれて、今のくすりやさんのところに小畑商店、今もあるえんどう商店の 二けんぐらいしか店がないので、かいものはみんな町まで出かけたそうです。 ― 後略 ―

上の2記述『高島子ども風土記』に見られる「赤岩町」の昔、接続しているが新団地は高島・祝津。建築以前は小学校外数軒の人家だけ。 その無人の境に巨大なアパートビルが林立し、窓々には日本海の輝きを見る。ニシン漁華やかなりしころ、誰がこの風景を 予想し得ただろう。

以上、新高島町史203〜205ページより抜粋。