公設水産卸売市場建つ
4. 公設水産卸売市場建つ

高島漁港は、昭和47年(1972)に一応の完成を見たが、新設南埋立地に数々の施設を必要とした。
これを建設年次順に言うならば、
  1. 昭和49年(1974)機船漁協の冷蔵庫及び砕氷船積施設
  2. 昭和51年(1976)2,247平方メートルの鮮魚さばき上屋
  3. 昭和51年(1976)105平方メートルの検量施設
  4. 昭和51年(1976)フィッシュミール組合の魚腸骨処理施設
  5. 昭和52年(1977)1,150平方メートルの卸売市場
  6. 昭和52年(1977)駐車場
  7. 昭和53年(1978)430平方メートルの排水処理施設

検量施設
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製氷冷蔵工場
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冷凍工場
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以上、完成となり昭和53(1978)年4月1日開設の喜びの日を迎えた。
場所は高島1丁目2番5号高島漁港区南端敷地面積は28,828平方メートル魚陸揚げ岸壁403メートル大型漁船数隻が同時接岸荷役可能。 高島はもちろん小樽市内漁業家及び水産物関係者一般が待望していた施設は、これだったのである。

陸揚げされた水産物は、小樽市機船漁業組合に渡り、買受人(問屋・仲買・鮮魚小売・加工業者・冷凍業者等)にセリまたは入札により 競売される。こうして運搬業者によって市内一円、更には札幌に運送されるのである。同市場「55年度のしおり」によれば、 年間利用船隻数延べ4,698隻(1日平均13隻)、水揚げ金額は59億6,000万円(1日平均1,633万円)となっており、魚種は、金額別には スケトウダラ34%、ホッケ29%、カレイ15%、イカ8%、その他14%となっている。

しかるに、昭和52年以降200カイリ時代に入り、日米、日ソ、日中、日韓とそれぞれ厳しい漁業協定が結ばれ、特に北洋漁業は 日ソをめぐる千島4島の所属問題もからんで減船等の措置が行われ、沖合漁業や近海漁業の重要漁場が 外国漁船の着底トロール漁法で荒らされる等、楽ではない時代に入り、 重油の価格高騰漁価の不安定なども機船漁業経営に不安の影をおとした。

@参考画像クリック高島漁港、平成15年(2003)撮影
A参考画像クリック
小樽市公設水産卸売市場(青い丸屋根の建物)、平成15年(2003)撮影

★昭和60年2月1日の道新は、北洋漁業(日ソ関係)の最近の歩みとして次の様に伝えている。

北洋漁業(日ソ関係)の最近の歩み 北海道新聞:昭和61年(1986)2月1日
昭和51年
(1976)
12月
200カイリ水域設定に関するソ連最高幹部会令公布
(200カイリ宣言)。
昭和52年
(1977)
3月
ソ連、200カイリ実施。
ソ連、貝殻島コンブ漁禁止を通告。
4月
ソ連、日ソ漁業条約の破棄を通告。
5月
日ソ漁業暫定協定調印
(サケ・マス母船10隻から6隻に減船)。
7月
日本、200カイリ漁業水域法実施。
昭和53年
(1978)
2月
ソ連、サケ・マスの沖取り全面禁止を提案
(その後、撤回したが、新たに締結した日ソ漁業協力協定では漁獲量 4万2,500トンに削減、母船さらに2隻減船)。
4月
ソ連、民間協定の日ソ共同事業提案。
5月
サケ・マス漁船に対するソ連監視船の臨検、
罰金命令相次ぐ。
昭和54年
(1979)
4月
サケ・マスの漁業協力費を32億5,000万円に大幅アップ。
エビ・カニの日ソ共同事業実現。
昭和55年
(1980)
4月
サケ・マス交渉スピード妥協
12月
お互いの200カイリ内の「日ソ・ソ日」交渉で
ソ連の等量主義台頭。
昭和56年
(1981)
3月
貝殻島コンブ漁5年ぶりに再開。
昭和57年
(1982)
3月
国連海洋法条約採択。
4月
サケ・マス交渉で我が国の監視船への
ソ連オブザーバー乗船を認める。
11月
「日ソ・ソ日」交渉でソ連、水深500メートル以浅の着底
トロール禁止を 主張し、操業条件で平等打ち出す。
昭和58年
(1983)
1月
日ソ漁業協力協定自動延長。
2月
カメンツェフ漁業相来日
(50年6月のイシコフ漁業相以来8年ぶり)。
4月
サケ・マス交渉でソ連、日本船の違反操業を厳しく追及。
6月
北洋サケ・マス漁の“おとり操業”発覚。
10月
サケ・マス交渉でソ連、我が国の漁獲量を55万トンに
削減すると 1次回答し、資源の低下を訴える。
12月
サケ・マス交渉妥結
(ソ連漁船の福島県小名浜寄港認める)。
昭和59年
(1984)
3月
ソ連、200カイリ経済水域に関する最高幹部会令施行。
4月
ソ連、サケ・マス交渉の1次回答で漁獲量を
3万5,000トンを提案。
8月
山村農水相訪ソ(54年の渡辺農水相以来5年ぶり)。
10月
日ソ漁業協力協定の改定交渉決裂、中断。
12月
「日ソ・ソ日」協定を長期(3年間)の「日ソ地先沖合漁業協定」に 衣替えすることで合意、調印したが、漁獲量、操業条件を決める 具体的交渉が難航し、中断する。
昭和60年
(1985)
1月
「日ソ地先」交渉再開。


★同じく妥協内容として次の様に伝えている。

日ソ漁業妥協の主な内容

◆漁獲高
日本、ソ連とも60万トン(前年は日本70万トン、ソ連64万トン)

◆操業条件
ソ連漁船の襟裳以東海域サンマ棒受け網操業禁止(7月〜9月)を解除。 日本漁業の沿海州沖漁場(7区)を一部縮小、 代わりにベルキナ岬(北緯約46〜47度)で新たに底魚漁業を認める。

◆寄港地
日本は塩釜港(宮城県)、ソ連はネベリスク(サハリン西側)を解放。

◆共同事業採用
日本漁船のエビ、カニ、ツブは全ソ連漁業船舶公団と大日本水産会との取り決めによる民間共同事業化。


問題は「実績主義」 ― 200カイリ以前は、日本は150万トン、ソ連の2.3倍 ― が崩れ去り、 「等量主義」となったこと。

ソ連に7〜9月のサンマ漁を解禁した措置が、沿岸漁業に大きな打撃を与えはしないか等の危惧である。

明治・大正期に愛唱した『われらが愛する北海道』では、 「望みはてなき国原は 沃野(ヨクヤ=土壌が肥えて作物などのよく実る平野)千里につらなりて 四方をめぐる 海原は 三大漁場の一ぞかし」と誇り、「海に無尽の富ひそみ 陸に無限の宝あり 陸と海とを聞きなば いかにさかえた農商工」と、 おう歌したころとはすっかり事情が異なって来たのである。「禁漁区の設定」「育てる漁業の強化」等を含め、今後の漁業経営に 大工夫を施すべき時機となったのである。

以上、新高島町史201〜203ページより抜粋。