教育の進展
3. 教育の進展

戦後6・3制の実施と共に急ぎ建築された末広中学校は、30年の歳月を経て各所にいたみが見えるので、 昭和57年(1982)に全面改装されて立派な校舎となった。

小学校は、新日本フェリーが就航し、祝津漁港(小型漁船用)が竣工し、『瀬戸の花嫁』の歌声の流れた昭和48年(1973)に 創立90周年を迎えた。その記念事業の意味で昭和46年(1971)神社裏児童公園造成の際の残土をグラウンド接続の雑草地に盛って 小グラウンド公園を造成、事業の主体はPTA(会長小林広志氏―加藤芳夫氏)、また協賛会組織をもってグラウンド周囲に 記念植樹、更に玄関前に花壇を造り水銀灯を設置したが、花壇の管理はPTA文化部が協力し、 小樽市花壇コンクールに入賞などのことがあった。

なお学校長宮本一男氏を中心とする教職員集団が企画し、高島・赤岩地域の町民の支持と協力の中で、子供たち自らの見学・聞き取り・ 調査・学習によってまとめた『高島子ども風土記』 (B5版150P、当サイトも活用させていただいております。ありがとうございます。)は、 郷土をきりひらいた人々のさまざまな苦労を「書き綴る」という営みを通して追体験したという意味で大きな意義を持つ。 本書(新高島町史)も各所に引用させて戴いた所以である。

風土記との関連の中で、昭和50年(1975)の高島稲荷神社の改築にふれさせてもらう。 『稲荷』は5穀などの食物をつかさどる神で、京都の伏見稲荷が本山であるが、江戸時代は町内安全の神として 各地方に勧請(カンジョウ=神仏の霊を分けて、別の所に移し祭ること。)されているが、 蝦夷各地でも知行主、場所持、あるいは請負人によって建立されたものであろう。 高島稲荷神社は、近郊では最も歴史が古く、住吉弁天社、張碓稲荷と同時代の元禄3年(1690)の建立とされているが、 明治の開村以来も町の守護神として篤く尊重して今日に至っている。 社殿は、大正5年改築以来50余年を経てかなり老巧したので、昭和48年(1973)、 氏子の浄財(ジョウザイ=宗教的な事業や社会事業などのために寄付される金品)1,500万円により4間・8間の現社殿に増改築を 果たしたのである。

以上、新高島町史200ページより抜粋。