小樽・高島の近代化
2. 小樽・高島の近代化
小樽市も安達市政下、昭和29年(1954)第三埠頭が竣工、昭和30年(1955)札樽国道舗装工事完成、
昭和31年(1956)総合職業訓練所を銭函に開設等を果たし、昭和33年(1958)塩谷村を合併し人口も20万4,377人(44,111戸)と
開基以来の最高となり、北海道博覧会の会場を引き受ける。
こうした間に、我が高島にも革新がもたらされる。
その一つは『高島町会』の結成である。昭和15年(1940)小樽市合併時は翼賛会小樽支部第9公区としての町民組織は
あったが、それは主として上意下達の機関であった。戦後もその形を引き継ぎ配給物資及び諸連絡には事欠かなかった。
その間にあって自主的に結成されたのは『青年団』であろう。初め、南、中央、北の3地区に発生した「若い衆の集い」が
ひとつにまとまって、良き指導者の助言の下、教養、文化活動に取り組んで町民を沸かせた。
『青年団』詳細クリック
消防団、PTA(昭和23年)、漁業をはじめ各種産業組合は結成されてはいたが、
民主的、総合的な自治組織としての『町会』は、
「東京だよ、おっ母さん」の歌声の流れた昭和32年(1957)、初めて結成された。
初代会長は小林仁八郎氏、全町1,200世帯を32区に小分けし、民生、防災、事業、文化、婦人部等の執行部を置き、200万円の予算で
発足し、まず取り組んだ事業は、道路、第2期漁港の整備と町会館の建設などであった。
以上、新高島町史182〜183ページより抜粋。