昭和30年前後の児童の生活
5. 昭和30年前後の児童の生活
昭和29年(1954)入学、35年(1960)卒業の西島光夫氏が昭和58年(1983)高島小学校が開校100年の時、学校の依頼で高学年に話した概要である。
- 入学当時 第一次学校改築及びグラウンド拡張整備完了(昭和26年)
学校裏に教員住宅4棟8戸落成(昭和27)その付近は全く住居なし
- 今のサブグラウンドの池、校門横の小泉製麺の池で金魚・鯉を養う。雨が降ると池があふれ魚が牛川に流れ出る。
それを子供たちがすくい取り、鯉は食べ金魚は池に帰す。サブグラウンドの池には、トンボ、ミズスマシ、アメンボが住み、
それをつかまえて遊ぶ。
- 昭和23年(1948)以前には、今のグラウンドは田んぼ、23、24、25年とかけて埋め立てて整備したもの。
- 昭和32年(1957、西島氏4年生)の頃は児童数が最も多く、1,682名、12月北手宮小学校開校して一部の児童が転校する
(通学区異動)。卒業時(昭和35)は1,352名となる。
- 『その頃の夏』海水浴は港内、豊井どこでもよし。中・小学校の高学年が、入学前の子どもを連れて海に行く。
小さい子にはウニのヘソ(口)を焼いて食わして泳げるように指導する。高学年は潜り、アワビ、ウニを採る。
場所は現在の林ガソリンスタンド(高島1丁目)の前浜でアサリ、ホッキが多い。造船所前浜はウニ、アワビ。
北日本冷蔵(高島1丁目)はアワビ、豊井は貝が採れた。浜へ行く途中、畑の芋を失敬して、浜で貝といっしょに煮て食べる。
それが昼食であった。
- 『秋の遊び』は赤岩へ行ってキノコを採ったり、鼠鳥にソーセージをかけておいてリスを捕まえる。
リスを食べるマムシが入っていることもある。それは赤岩の海に捨てる。
- 『運動会の場所とり』運動会観覧の場所とりは、その前日から行なわれていたが、むしろ敷きの代わりに
馬をつないでおいて町の話題になった人もいた。その頃はまだ馬車が荷物を運ぶ時代で、冬の燃料の石炭などはみな馬車で
運んでいたので、赤岩にも高島にも馬が多かったのである。
- 『冬の遊び』竹スキーとそりが主、まだ自動車が少ない時代であったので、竹スキーで手宮までバスの後に
つかまって行ったり、そりで稲荷町のてっぺんから滑り降りたり、坂という坂はどんどん滑って遊んだ。
一番の思い出は末広中学の坂を手宮の拓銀近くまで滑り降りたこと。
- 『サイの神』(正月の松飾り焼き)は、今は児童公園1ヶ所だが、その頃は各所で行われ、燃え上がる火の
大きさと燃えている時間の長さを競い合ったものである。
- 『たなばた』、その頃は、晩は大きい子どもだけが集団で町内だけでなく、手宮、長橋方面にも進出し
「ローソク代」を貰いに行った。集まったお金は、集団毎の炊事遠足やキャンプの豚汁、カレーライス、ジンギスカン等の
材料費に使われた。
- 『おやつ』は、廃品回収で、近所の子ども同士が集まって空き缶や鉄くずを拾って雑品屋に持っていって
お金に換えて、それでカマボコ工場から「ハネ」を安く買ってきて、分けて食べたりした。
- 『プラモデル』を見たのは、6年生(昭和34)の時が初めてである。
- 『テレビ』は、3年生(昭和31)の頃、初めてついたが、テレビのついた家に10人〜20人と集まって一つの座敷を占領してしまった。
白黒の14インチ型で15万円位、いまの車1台位の値打ちがあった。高島は割合に早く普及した。
以上、新高島町史179〜180ページより抜粋。