町再建の努力
2. 町再建の努力

ここ小樽市高島町もまた、ドン底からの出発であった。カヤシマ岬に夏雲の立った昭和20年(1945)8月15日、 『終戦の(※1)詔勅(ショウチョク)』の(※2)玉音放送の聴取後、慟哭(ドウコク)・虚脱の数日を過ごしたことは 全市、全国と変わりがない。待たれるのは未帰還の父子兄弟、それが1人、2人と帰るごとに町中、声を上げて喜び合ったものである。 しかし、ついに帰らぬ英霊は、長期戦争の間、高島町だけで114名に上る。

主食配給、1人1日2合3勺(345g)から21年(1946)11月2合5勺(381g)、23年(1946)11月からは2合7勺(417g)と増配になるが、 遅配。欠配の日が続く。漁労、海草採集、自給菜園づくり、買出し、物々交換など食糧を求める営みがこの期(戦後第一期)の 主要行動であったのである。

しかし、出漁しようにも、戦時中、(※3)哨戒艇として徴用された町内約半数の漁船は還らないものが多く、 他の漁船はおおむね老巧し、加えて重油を始め、その他必需品も配給不足で、価格の高いヤミルートに頼らざるを得なかったのである。

幸いだったのは昭和21〜22年(1946〜1947)、春のニシンの小群来。久方振りに6・7年生の油のしたたる焼きニシンに舌鼓みを打ち、 かつは小樽市民にも喜んでいただいたことであった。

22年(1947)5月、日本国憲法、及び地方自治法の施行によって、北海道はようやく府県と同じ自治体となったが、施行に先立って4月、 道・市町村の首長、議会議員の選挙が行われた。その結果、道は田中敏文知事、市は寿原英太郎、当町出身の市会議員として、 渡辺善太郎、島本虎三が誕生したのである。

そしてその年、漁業用資材配給規則が公布され、重油、漁網(木綿、麻、絹製)、ロープ、タングステン電球等の配給があり、併せて 23年(1948)12月公布の水産業協同組合法により、小樽市漁業協同組合(沿岸漁業)と共に、従来小樽・高島と分かれていた汽船漁業 (近海、沖合漁業)が一本化して、小樽市機船底曳網漁業協同組合(機船42隻)となったことも、山積みする共通問題解決のため、 望ましいことであった。

これより先、昭和22年(1947)に金融機関として北海道拓殖銀行高島支店の進出があったが、 昭和25年(1950)小樽信用組合(金庫)高島支店(翌年、小樽市信用金庫高島支店と改称)が開設されて、今日に至っている。

交通機関としては、中央バスの赤岩経由祝津線が1時間に2本くらい、高島線は手宮ターミナルを中継して、これもまた、1時間に2、3本と いうところ。未舗装の道路を営業用トラックが走るくらいで、自家用車等はほとんどなく、町民の娯楽としては、 ラジオの「のど自慢素人演芸会」、放送劇「鐘の鳴る丘」、24年(1949)1月からの「トンチ教室」、などである。

しかし、この期、率先立ち上がって町民活性化の原動力となったのは、高島独特の郷土色に裏打ちされた『青年団活動』と、 『高島白鴎会の第2回国民体育大会の優勝』がある。

― 青年団の概略 ―
昭和21年(1946)敗戦後の混迷から青少年の健全な育成をはかる目的で、全国的に地域別青年団の組織づくりが要請され、小樽市に おいても各地域の宗教、教育関係者と町内役員を産婆役に、全市的に相次いで青年団が誕生した。

我が高島町においても、町内会別(その当時、南・北・中央)に南高島男女青年団、北高島青年団、高島中央青年団が時を 同じくして産声をあげ、高島独特の郷土色に裏打ちされた活動が行われた。

各青年団は、総務、文化、体育、婦人の各部を設けて独自の活動をした。登山・炊事遠足・海水浴・読書会・レコードコンサート・ 討論会・俳句短歌の会・団報の発行・茶道教室・手芸作品展覧会・神輿かつぎ奉納・相撲大会・演劇研究発表会・弁論大会・ 各団対抗野球大会など。 年末には町内の歳末警戒に協力して、町内の夜警巡視に参加した。

一方、昭和25年小樽市青年団体連絡協議会の主催による小樽市青年会議は、市としても青年団体協議会としても、全くの新しい試みとして、 当初から各方面の注目を浴びた。現職の市議会正副議長と常任委員長を理事長に迎えての質疑応答では、純粋な気持ちで市の発展を願う 青年男女の質問の数々は、慣れぬための不手際はあったものの、事前通告なしのぶっつけ本番であり、実に迫力に溢れたもので当時の 新聞紙上を賑わせ、回を重ねる毎に実り多い催しとなり大方の評価を得た。

当時は、他に娯楽の少ない時代であったせいか、各種の会合や行事に参加して同好のグループと親しく語り合える楽しさは何物にも 代え難いものであった。しかしながら、世情は変化し、社会の生活様式も多様化、若者の個人主義化も急速に進んだ。こうして敗戦直後に 発足した地域青年団は自然消滅に至った。

青年団活動を通じて視野を広め知識を深めながら次第に自分の意見を臆せず発表できるようになり、人との和を広げていったことは、 何にもまして大きな収獲であったことを痛感するものである。また実際に活動した期間は10年余りのけして長い年月ではなかったが 発足以来、現在に至るまで温かい交友の輪に結ばれているのは、まことに意義深いことである。

― 高島白鴎会 国体ボートで優勝 ―
高島白鴎会は、小樽漕艇協会に加盟していない団体であったが、高島地区の若い人達がボートにチャレンジしようと、 昭和22年(1947)京都市で開催された第2回国民体育大会に参加、あれよあれよという間に決勝に進出し、とうとう優勝して 日本一になってしまったのである。
この事実は体協に加盟していなかったので最近まで一部の人達だけに語りつがれていたにすぎなかったが、 昭和55年(1980)小樽体育協会史に記載されて公に認められることになった。

昭和22年第2回国民体育大会(京都市) 漕艇の部(ボート)
■一般の部 優勝「高島白鴎会」
・クルー 「舵手:成田安治」「調整:西島漁太郎」「5番:上村正二」「4番:矢城敬二」
      「3番:平野勇吉」「2番:渡辺三郎」「軸手:成田順治」

記事提供者、成田氏の原文のまま掲載。

その前年、昭和21年(1946)小学校が全市学童水泳大会に優勝、「さすが海の子、海の男の根性よ」と認めていただいたのである。

以上、新高島町史168〜170ページより抜粋。

解説

(※1)詔勅(ショウチョク)

天皇が公に意思表示する文書

(※2)玉音(ギョクオン)放送

玉音とは天皇の声。天皇の話されることば。
天皇じきじきのラジオ放送。特に、1945年8月15日正午から録音で流された、終戦の詔勅の放送のこと。

(※3)哨戒艇(ショウカイテイ)

敵の攻撃を見張る船