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― 青年団の概略 ― 昭和21年(1946)敗戦後の混迷から青少年の健全な育成をはかる目的で、全国的に地域別青年団の組織づくりが要請され、小樽市に おいても各地域の宗教、教育関係者と町内役員を産婆役に、全市的に相次いで青年団が誕生した。 我が高島町においても、町内会別(その当時、南・北・中央)に南高島男女青年団、北高島青年団、高島中央青年団が時を 同じくして産声をあげ、高島独特の郷土色に裏打ちされた活動が行われた。 各青年団は、総務、文化、体育、婦人の各部を設けて独自の活動をした。登山・炊事遠足・海水浴・読書会・レコードコンサート・ 討論会・俳句短歌の会・団報の発行・茶道教室・手芸作品展覧会・神輿かつぎ奉納・相撲大会・演劇研究発表会・弁論大会・ 各団対抗野球大会など。 年末には町内の歳末警戒に協力して、町内の夜警巡視に参加した。 一方、昭和25年小樽市青年団体連絡協議会の主催による小樽市青年会議は、市としても青年団体協議会としても、全くの新しい試みとして、 当初から各方面の注目を浴びた。現職の市議会正副議長と常任委員長を理事長に迎えての質疑応答では、純粋な気持ちで市の発展を願う 青年男女の質問の数々は、慣れぬための不手際はあったものの、事前通告なしのぶっつけ本番であり、実に迫力に溢れたもので当時の 新聞紙上を賑わせ、回を重ねる毎に実り多い催しとなり大方の評価を得た。 当時は、他に娯楽の少ない時代であったせいか、各種の会合や行事に参加して同好のグループと親しく語り合える楽しさは何物にも 代え難いものであった。しかしながら、世情は変化し、社会の生活様式も多様化、若者の個人主義化も急速に進んだ。こうして敗戦直後に 発足した地域青年団は自然消滅に至った。 青年団活動を通じて視野を広め知識を深めながら次第に自分の意見を臆せず発表できるようになり、人との和を広げていったことは、 何にもまして大きな収獲であったことを痛感するものである。また実際に活動した期間は10年余りのけして長い年月ではなかったが 発足以来、現在に至るまで温かい交友の輪に結ばれているのは、まことに意義深いことである。 |
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― 高島白鴎会 国体ボートで優勝 ― 高島白鴎会は、小樽漕艇協会に加盟していない団体であったが、高島地区の若い人達がボートにチャレンジしようと、 昭和22年(1947)京都市で開催された第2回国民体育大会に参加、あれよあれよという間に決勝に進出し、とうとう優勝して 日本一になってしまったのである。 この事実は体協に加盟していなかったので最近まで一部の人達だけに語りつがれていたにすぎなかったが、 昭和55年(1980)小樽体育協会史に記載されて公に認められることになった。 昭和22年第2回国民体育大会(京都市) 漕艇の部(ボート) ■一般の部 優勝「高島白鴎会」 ・クルー 「舵手:成田安治」「調整:西島漁太郎」「5番:上村正二」「4番:矢城敬二」 「3番:平野勇吉」「2番:渡辺三郎」「軸手:成田順治」 記事提供者、成田氏の原文のまま掲載。 |