合併より終戦まで
3. 合併より終戦まで

小樽市合併後の高島は各種の便宜を得た。 役場は小樽市役所高島支所と名称を変え、役場の一部を市設の診療所として派出医師が診療に当たった。

戸数1645戸(両町)、人口8600余人、うち水産業は850余戸で産業構造にも、 さしたる変化がなかったが増加する召集令状に加えて前年の14年(1939)に公布された国民徴用令により働き盛りの若い者が、 続々離村するのは痛手であった。

日常生活も昨年からの米穀配給統制(1人1日2合3勺=345グラム)に続いて、その他の生活必需品も切符制になり、 ぜい沢品禁止令も発布され、大政翼賛会下、下部組織も隣組制となる。

高島は小樽市第九公区となり前町長竹島武次郎氏を公区長に推戴して、 紀元二千六百年祝歌「金鵄輝く目本の 栄ある光身にうけて いまこそ祝え この朝 紀元は二千六百年 あぁ一億の胸は鳴る」と 高らかに歌ったものであった。

そして、その年の年度末、即ち昭和16年(1941)3月に発行された『高島町史』A5判394頁、高島尋常高等小学校発行は、 300年に及ぶ旧高島郡の歩みの総括でもあった訳である。

16年(1941)4月、小学校は「国民学校」と名称が変わり、文部省は「臣民の道」、陸軍は「戦陣訓」をそれぞれ国民必読の書として配布した。 4月、日ソ中立条約、7月、米英加三国が日本資本を凍結、八月、日米会談開始、10月、東条内閣成立、 そして12月8日、太平洋戦争に突入した。

第九公区は、区内を5町内会に分け、1町内は祝津、2町内高島(飯田三吉)、3町内高島(斎藤文吉)、4町内高島(分銅次郎)、 5町内赤岩とし、 その中に地域ごとの隣保班を組織して国策遂行に遺漏なきを期す。 これとタイアップして活動する在郷軍人分会長は黒沢仁吉氏である。

こうした中でまず急がれたのは「水道」の設置であるが、小樽市当局の理解の下「高島貯水池」の設置となり、 課題の一つが解決される。

太平洋戦争緒戦は、ホンコン、シンガポール、マレー、ビルマ、フィリピン、インドネシア、タイなどと 東南アジア全域にわたる南太平洋一帯の島々を征圧し、米、英、蘭支配の植民地のほとんどを占領し、 「大東亜共栄圏の建設」という目標を掲げたが、昭和17年(1942)の後半には連合軍が各地で反撃に転じ、戦局はしだいに不利となる。

この年、ニシン漁もあり、合併時の約定により町より飯田三吉・亀山勝利・青山馨の三氏を小樽市議会に参加せしめる。 併せて企業整備令に則り、高島郡・小樽郡・小樽市三者を合併し、保証責任小樽市漁業協同組合となる。 高台寺の寺称公称(6月)、南高島町火災(7月)もこの年である。

高島子ども風土記(発刊:昭和49年)  発刊当時 高島小学校6年 NK様
太平洋戦争のころのようす −だんだん品物がなくなって、−みんな軍隊に取られるからね−それで食べ物も少なくなってねえ。 漁船に乗っている人なんかとくにたくさん食べるから全然たりなくて、おじいちゃん達がよく喜茂別の方へ、 ニンジンやジャガイモなど買いに行ったものよ。そして買ってきたイモなんかは一ヶ所でまとめ、料理して食べさせたものよ。 そのほか海藻めんといって、海藻をどろどろにとかし、それをクシでメンのように細くして、うどんと同じようにした物も食べたねえ。 それから時々係りの人が鉄製のなべ、ビン、ジザイカギなんかを取りに来てさ。 しまいには寺のかねや墓のかこいの鉄の手すりまでも持っていかれたねぇ。

昭和18年(1943)、2月ガタルカナル日本軍撤退(当時「転進」と表現)、5月アッツ島守備隊玉砕、しかし六月学生動員計画成り、 11月大東亜会議を開き、「大東亜宣言」発表。

『若鷲の歌』「若い血潮の予科練の 七つのボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞が浦にゃ でっかい希望の夢が湧く」や 「朝だ夜明けだ 潮の息吹きうんと吸い込むあかがね色の 胸に若さのみたぎる誇り海の男の艦隊勤務 月月火水木金金」 と励ましの歌声は響いたが、11月、マキン、タワラ島守備隊全減、12月、徴兵年齢を1年下げて学徒兵入営。 この年小樽はまた軍の輸送船団基地となり、高島を含め発動機船徴用十隻に及ぶ。 小学校の二宮尊徳像もまたこの年の四月献納となる。

高島子ども風土記(発刊:昭和49年)  発刊当時 高島小学校6年 SY様
戦争の時には、運搬船も造るには造ったが、それだけでは足りないので、全国の漁船は、国からおまえのところの漁船を戦争にだせ、 といわれたのだよ。船の持ち主はしかたがたくだした人もいれば、国のためだとよろこんでだした人もいたぞ。共栄鉄工所長談

翌昭和19年(1944)、1月防空法による疎開命令3月米軍マーシャル群島上陸、決戦非常措置要項実施、5月国民総決起運動始まる。 7月サイパン島陥落。小磯・米内協力内閣成立、8月1億総武装決議。学徒動員令施行。このころより竹槍訓練行われる。 九月ビルマ、雲南の日本軍全減。17以上を兵役に編入、10月米軍レイテ島上陸。比島沖海戦に神風特別攻撃隊出撃、 そして11月よりサイパンの米空軍日本本土各地への空襲爆撃をはじめる。

このころ小樽は暁(あかつき)部隊−軍人、物資の輸送部隊−が駐屯し、小・中学校・デパートの一部を徴用し、兵舎として、 失地奪還の機をねらうと共に、本土防衛に精励する。しかし軍人・物資の消耗相継ぎ、召集・英霊の帰還もまた頻繁となる。

高島子ども風土記(発刊:昭和49年)  発刊当時 高島小学校6年 NK様
召集令状は7日前に来るんだ。出発の前の日に親せきや近所の人達が中心になり、ほかに国防婦人会の人達がたすきをかけ、 両手に小旗を持って、神杜の前に集まり、そこで在郷軍人や兵隊に行く人の代表者があいさつをしてから、日本製粉の前まで見送る。 そこからは、在郷軍人の人達と兵隊に行く人、それにそこの家族の人だけが、歩いて小樽駅まで行き、 わかれのあいさつをして見送る−そうしたことはほとんど毎日のようにあった。

戦死した兵隊は、死亡通知がその家族に送られてきて、その家族は在郷軍人の人といっしょに駅までむかえに出て受けとり、 家に持って帰って各自でそう式をあげたそうです。駅で遺骨を受け取ったのはごくまれで、ほとんどは、 かみの毛やつめなどだったそうです。

こうして昭和20年(1945)1月米軍ルソン島上陸、3月硫黄島の日本軍全滅、4月米軍沖縄に上陸し「ひめゆりの塔」の秘話をこめて 敵空軍の基地となる。 かかるおり、2月欧州でヤルタ会議、4月ソ連より中立条約不延長の通告を受け、5月ドイツ軍降服(イタリアは昭和18年)して、 国際的に孤立無援の状態となる。

この問、空襲はますます頻繁となり、各都市次々と被害を受け、6月には名古屋城空爆焼失、宮城また炎上という不祥事を受ける。 7月連合国側はポツダム会談、時を同じくして鈴木貫太郎内閣ソ連に和平斡旋を要請するも、時、既に遅かりしか、 米空軍の爆撃は止まず、小樽もまた空襲を受ける。

高島子ども風土記(発刊:昭和49年)  発刊当時 高島小学校6年 NK様
20年の7月14日の日、艦載機が何機か飛んで来てうまやの石油タンクや高島岬なんかを射ちまくった。 タンクはだいじょうぶだったげど、岬の小舟が射たれて一人が死んで数人がけがをしたんだ。 高島にはこれしかこなかったんだけど、その攻撃たるやすごいもので「ブーン」って飛んで来て 「バリバリバリ」ってものすごい音をたてながら射って来たと思ったら、 土けむりが立って、その後に弾丸のあながぽっかりあいた・・・、 上から射つから勢いがつくからな。でもほとんどの人は防空壕の中に入っていたからだいじょうぶだったんだけど、 その死んだ人というのは、船に乗っていたからまに合わなかったんだな−(祖父よりのききとり) 

こうして8月に入ると広島に原爆投下、ソ連の参戦、長崎に原爆投下、御前会議の結果、徹底抗戦派を退けてポツダム宣言受諾に決し、 連合国側に連絡すると共に、「終戦の大詔」のラジオ放送、一億涙を絞ると共に、未帰還の将兵と居留民を案ずる。

帰還の遅速も駐屯地によって大きな差異があった。国内国外と分ける時、国内が早かったのは当然としても、 国外でも満州・樺太・.北千島のソ連占領地方面は「抑留」の名の下にノルマ労働に従事させられ、帰還に遅れが多かった。 「今日も暮れゆく異国の丘に 友よつらかろせつなかろ 我慢だ待ってろ嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る 春が来る」の「異国の丘」も、「とどかぬ願いと知りながらもしやもしやに ひかされて」今日も来る「岸壁の母」も多くの共通体験である。

一挿話(エピソード)を話そう。当時飯田健一郎氏は仙台陸軍士官学校を卒えて、20年(1945)3月エトロフ守備部隊幹部、 たまたま部隊長命令により輸送船調達のため、釧賂に出張服役、概ね任を果たしたところへ転属命令、 「エトロフ帰還に及ばず、帝都防衛の為東京近郊海上機動第4旅団に転勤せよ」。即刻配備につくもそこで敗戦の日を迎える。 9月9日除隊帰還するもその時「これは天の命として生き残って郷土再建に努カせよという事なんだ」と痛感したという。

以上、新高島町史161〜166ページより抜粋。