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高島子ども風土記(発刊:昭和49年) 発刊当時 高島小学校6年 NK様 太平洋戦争のころのようす −だんだん品物がなくなって、−みんな軍隊に取られるからね−それで食べ物も少なくなってねえ。 漁船に乗っている人なんかとくにたくさん食べるから全然たりなくて、おじいちゃん達がよく喜茂別の方へ、 ニンジンやジャガイモなど買いに行ったものよ。そして買ってきたイモなんかは一ヶ所でまとめ、料理して食べさせたものよ。 そのほか海藻めんといって、海藻をどろどろにとかし、それをクシでメンのように細くして、うどんと同じようにした物も食べたねえ。 それから時々係りの人が鉄製のなべ、ビン、ジザイカギなんかを取りに来てさ。 しまいには寺のかねや墓のかこいの鉄の手すりまでも持っていかれたねぇ。 |
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高島子ども風土記(発刊:昭和49年) 発刊当時 高島小学校6年 SY様 戦争の時には、運搬船も造るには造ったが、それだけでは足りないので、全国の漁船は、国からおまえのところの漁船を戦争にだせ、 といわれたのだよ。船の持ち主はしかたがたくだした人もいれば、国のためだとよろこんでだした人もいたぞ。共栄鉄工所長談 |
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高島子ども風土記(発刊:昭和49年) 発刊当時 高島小学校6年 NK様 召集令状は7日前に来るんだ。出発の前の日に親せきや近所の人達が中心になり、ほかに国防婦人会の人達がたすきをかけ、 両手に小旗を持って、神杜の前に集まり、そこで在郷軍人や兵隊に行く人の代表者があいさつをしてから、日本製粉の前まで見送る。 そこからは、在郷軍人の人達と兵隊に行く人、それにそこの家族の人だけが、歩いて小樽駅まで行き、 わかれのあいさつをして見送る−そうしたことはほとんど毎日のようにあった。 戦死した兵隊は、死亡通知がその家族に送られてきて、その家族は在郷軍人の人といっしょに駅までむかえに出て受けとり、 家に持って帰って各自でそう式をあげたそうです。駅で遺骨を受け取ったのはごくまれで、ほとんどは、 かみの毛やつめなどだったそうです。 |
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高島子ども風土記(発刊:昭和49年) 発刊当時 高島小学校6年 NK様 20年の7月14日の日、艦載機が何機か飛んで来てうまやの石油タンクや高島岬なんかを射ちまくった。 タンクはだいじょうぶだったげど、岬の小舟が射たれて一人が死んで数人がけがをしたんだ。 高島にはこれしかこなかったんだけど、その攻撃たるやすごいもので「ブーン」って飛んで来て 「バリバリバリ」ってものすごい音をたてながら射って来たと思ったら、 土けむりが立って、その後に弾丸のあながぽっかりあいた・・・、 上から射つから勢いがつくからな。でもほとんどの人は防空壕の中に入っていたからだいじょうぶだったんだけど、 その死んだ人というのは、船に乗っていたからまに合わなかったんだな−(祖父よりのききとり) |