小樽港と高島漁港
3. 小樽港と高島漁港

小樽市の最盛期は大正13年から昭和4・5年ごろまでとは、おおむねの人の一致した見解である。

大正12年(1923)に運河式埋立工事完了し、翌13年(1924)8月、若槻礼次郎内相を迎えて北海製缶会社大広間で完工祝賀式典を挙行。 同年入港船舶隻数6,248隻と最高を記録し、15年(1926)2月、ソビエト領事館を開設、小樽新聞主催の東京-札幌間直通飛行実施、 昭和3年(1928)札幌-小樽問のラジオ放送開始、2月、英国領事館設置、昭和2年(1927)の港湾ストライキも決着し、 同4年(1929)、入港船舶総トン数1,176万9,983トンと最高を記録する。

色内町筋はウォール街、運河はハシケ荷役で賑わい、街にはバス運行する。 「港小樽はよい港、並ぶマストにおぼろ月、花は黄金の波に散る」という小樽小唄はその頃の作である。

わが高島もまた、着々と近代化を進めた。 海岸の埋立工事が完了して機船漁業もひとまず板につき、学校は新築されて高等科も併置され、 大正15年(1926)には奉置所境内に植樹も行われた。 待望の電話は大正14年(1925)に開設され、郵便局業務の拡張、 更には小樽銀行の高島出張所も設置されて集落の杜会機能も一応整いつつあった。

しかしながら、町一番の間題は、漁港の不備であった。 だいたい高島港は、寛政4年(1792)、最上徳内らの西蝦夷海岸見取図によれぼ、 −シクヅシ・トヨイ・大船澗・テミヤと記載あり、越えて文化3年(1806)、 遠山景晋らの東海参譚オタルナイ巡見記には、「4月18日、メナシトマリ、シクツシ、タカシマに泊る。 夷地第一の大澗なり、湊口に弁天島有之」と記載されているところから見れば、弁財船当時の良港だった訳である。

明治になってからも、古老斎藤文吉氏は、 「明治時代の高島地域の景観を想い起こしてみると、当時の海岸線は上架した漁舟が櫛の歯のように整然と並び、 美しい自然の中で漁業の盛んな町の様子は、今でもありありと浮かんでくる」と述べておられるように、 良い漁港だったに相違ない。

しかし、それも川崎船時代のことであって、その後発動機船となれば、それ相当の設備が必要になってくる。 まず、風波に対しては、カヤシマ岬及び弁天島が北方にあるので心配はないが、 東及び南風に対しては、何らかの施設が必要、海底の岩碓はおおむね撤去したが、 年々砂れきが海岸に打ち寄せるのでこれの防御あるいはしゅんせつが必要。接岸荷役のため繋船岸壁等が必要である。

以上のうち昭和初期に完了したのは、
  1. 弁天島の防波堤化
  2. 小樽漁港会社施工による北高島海面埋立並びに小防波堤
  3. 接岸荷役のため中央線下部海面埋立岸壁造成
  4. そして昭和3年弁天島と陸岸との中間に35間(63メートル)の一文字形島堤造成である
そのうち、一文字形島堤は高島郡漁業組合の負担で行ったものであったが、低く短いために、 漸次大型化するが船の波浪防止にはあまり効果をもたらすことができなかった。 何とかしなげればと考えていたときに襲ったのが昭和5年(1930)からの後志沿岸一帯にわたるニシンの大不漁である。 高島町は町生産額の90%は水産金額であり、額はおおむねね120万円を越えていたのである。 それなのに昭和5年(1930)は74万円、6年(1931)は93万円と漸減の一途をたどったのはニシン不漁に起因するのである。 この上は沖合漁業の振興を待つほかはない。


このころ日本は満州国をもり立て、東亜共栄圏建設の夢を持っていたし、道もまた港湾の近代化、接岸荷役のための埠頭の建設、 漁業振興のための漁港修築等によって、日本海を繁栄の海とすることを望んでいたので、 この機逸すべからずとして昭和10年(1935)に提出した町長外有志553名連署の『陳情書』及び高島漁港期成会からの『意見書』について 述べる。

以上、新高島町史148〜149ページより抜粋。