町文化の発展
7. 町文化の発展

 旧校舎時代の運動会場
 (町史142ページより)
大正8年(1919)8月正林寺境内に、明治34年(1901)におきた鱈釣漁船8隻59名の海難者の慰霊碑が建つ。

このころは、また教育にも力が入った。支所付近に小学校の校舎を新築した明治32年(1899)105坪の校舎で112名の児童を2学級に収容、 乙村校長以下3名で指導に当たったものであったが、年次の人口増、加えて教育年限の延長で、 大正10年(1921)には尋常科6年の上に修業年限2ヶ年の高等科を併置し、児童数792名を 12学級に詰め込んでの学級指導は、乙村校長以下職員13名にとってはなかなかの苦労であった。

これより先、大正9年(1920)の12月、児童保護会が結成され、初代会長には寺田検治氏が選任された。

当面の問題は相次ぐ増築のため、校地内にグラウンド用地がほとんどなく、更に増築の必要も認められるので 校舎移転の適地を求めることにあった。いろいろ検討の末、「牛の沢(現高島4、5丁目)」とあたりをつけた。

乙村校長は23年に亘る校長生活に別れを告げ、11年(1922)4月、渡辺哲蔵校長と交替する。 こうして大正12年(1923)、小学校開校40周年の年の11月、高島町141番地(現在地)造成の新校舎成り、 移転する(児童数860名14学級)。

昭和58年(1983)11月9日、開校百周年記念行事の一環として、当時の在校生であった西館正信氏が招かれて、 当時の状況を児童に話して聞かせている。

要点を摘記すれば、 時あたかも小樽の黄金時代に当たり、わが高島もまた近代化が進む。 大正11年(1922)、郵便受取所は郵便局と名称を変えて業務を拡張、 大正12年(1923)、小樽銀行も高島に出張所を設けて(高島信用購買販売組合と協力する)いた。

学校はまた大正12年(1923)、開校40周年を迎え、はじめて校章と校旗を制定する。 その前年の大正11年(1922)には応援歌が制定されている。 『鴎が丘』という美称は、そのころから生まれたのではなかろうか。 大正13年(1924)には、日本製粉小樽工場も建設されて、鉄道線路も高島まで延長する。

「夕焼けこやけ」「春よこい」「あの街この町」などの童謡風唱歌もはやり、大正デモクラシーと呼ばれた時代でもあった。

以上、新高島町史141〜143ページより抜粋。