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高島子ども風土記(発刊:昭和49年) 発刊当時 高島小学校4年 FM様 70歳ぐらいのおじいさんに赤岩の話をききました。大正のはじめ、りんご畑が多く、ぶたやにわとりも多かった。 今の木村水産の所はゴミすてばで、ひるまはゴミのまわりにぶたをはなす。夜になるとぶた小屋に入れる。 ランプをつかっていたが、ランプそうじは子どもの役目、赤岩郵便局から新田商店までは家が少なく、20けんたらずだった。 郵便局前の川はかじかがいて、きれいでした。 |
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高島子ども風土記(発刊:昭和49年) 発刊当時 高島小学校3年 MK様 大正時代の終わりころの赤岩は、本田さわとよばれていました。 本田さわというのは、本田さんという人の名前からつけられたのだそうです。 そのころの家は70軒ぐらいで、住んでいる人は二百人位、ちょうど今の農家のように、家が点々としていた。 赤岩に住む殆どの人は、ブタの生産、馬車での運搬、魚かすのしょりなどの仕事をしていた。 今の赤岩マンションや、ことぶき湯などの大きなたて物は何もなく、広々とした魚かすのほしばでした。 朝は4時ごろに起き、夜は八時ごろまで、はたらいていたそうです。 |
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高島子ども風土記(発刊:昭和49年) 発刊当時 高島小学校1年 OM様 うちのおとうさんは、いろないちょうというところでうまれた。あかいわにうつってきたのは51年もまえです。 とうさんが4ねんせいのときだったそうです。とうさんは、よるランプでべんきょうしました。 みちがわるくあめがふると、ぐちゃぐちゃになるので、畑の中から石を拾ってきて道路を直したそうです。 がっこうにはかまをはいていったら、わらわれたそうです。よくとし、あたらしい学校ができました。 |