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高島子ども風土記(発刊:昭和49年) 西舘正信様 私が少年期8才の頃、現在日根建設さんの向かいに道立高島水産試験場があり、場内には缶詰工場試験所、 魚類のくん製工場、海草、貝類、珍しい魚の生育試験所等が立ちならび、私等子供達はよく無断で場内に入って叱られました。 また、くん製試験場での作業中の職員の方に、鮭のくん製の屑を頂戴して皆で食べたあの味は、今でも忘れない。 しぶい塩味のきいたマロヤカな味、本当に思い出すね。 それから今の川原さんのところと記憶して居ますが、卓球室があって私達子供等は、よく昼休み時間を見計らって枠の外によじ登り、 白衣を着た職員男女数名がトレーニングをしているのを見学したものです。 それを見た私も子供ながら、1回でいいから卓球を打って見たいと、いつも思っていました。 缶詰試験所には、無断で入れないが、職員及び作業員が白衣で忙しそうに仕事をしているのを見かけました。 また、カラスに追われた大フクロー、羽を広げれば1m余りはあったと思うが、柵に入れて餌を与えて飼育していて、 私等友達同志で魚やねずみ等を食べさせたこともありました。 現在、高島支所(現在の高島会館)の向かいの医院の所には高島町役場があって、 その向かいの現在の八田さん宅並びに保育園の所は、旧高島小学校の跡で校門が立って、其の隣側に大ポプラ並木が勇壮に立ち並び、 暑い夏には日陰で絵を画いたり本を読んだり遊んだものです。 当時野球もその頃盛んで、少年野球試合等もよくやりました。 学生・会社対抗の試合もなかなか熱がはいり、子供ながらも応援に行き、面白かったね。 昭和2、3年頃の高島、現在の自宅近所の様子を思い出して筆に致しました。 |
高島子ども風土記(発刊:昭和49年) 発刊当時 高島小学校6年 KW様
大正10年頃、高島弁天島(左画像)には小熊さんという人が住んでいて、試験所の水温をはかったり、魚を養殖してえさを与えていた。
魚の種類はおもにうにやあわび、それからほっけだった。その小熊さんに子どもがいて高島小学校に通っていた。
まい朝、小熊さんのおかあさんがいそ舟で岸まで送っていったやったもんだ。
帰りは岸のところで1時間も前から子どもを待っていて、舟にのせて帰るんだ。その子どもさんは、今55才ぐらいになって、
赤岩に住んでいられるとか。詳細・・・クリック→弁天島 |
| 明治35年(1902)高嶋村の北海道水産試験場における「ニシン樽詰め」 北海道新聞社1999年発行「鰊 失われた群来の記録」117ページより抜粋 ↓画像クリックで拡大 |
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