日露戦前後の小樽
5. 日露戦前後の小樽

ともあれ、そのころは「海」の時代、「軍艦マ−チ」の歌声(守るも攻めるもくろがねの・・・)に乗って 明治36年(1903)「海軍拡張案」可決、明治33年(1900)旭川に移転した第7師団は、高島村の入営兵も含めて ロシアへの敵愾心(てきがいしん)を燃やす。

そして道民は「我らが愛する北海道」で殖産共業に意欲を燃やす。 明治36年(1903)には小樽・高島両郡漁業組合を「小樽水産組合」と改称、 組合長には渡辺兵四郎氏(後の第5代小樽区長)を推す。

翌37年(1904)日露戦争の開戦となるや日和山灯台には陸軍監視哨が設置され、月寒連隊より駐屯兵が派遣される。 海軍はまた監視船利尻丸を沖合に浮かべて警戒にあたる。3月からの旅順港口閉塞は前後3回にわたって21隻の商船を港口に沈めて 敵艦隊を封鎖したが、そのうち4隻が小樽海運業者の持船であった。

明治39年(1906)11月1日、日露戦勝による樺太国境画定会議が日本郵船小樽支店(旧小樽博物館)で開かれた。 南樺太が日本領となり、漁業、林業、鉱業などの豊かな樺太資源開発のため樺太庁が設置され、 小樽−樺太間の定期航路も正式に開設された。それ以来、本土と樺太の物資移出入の基地となったのである。 生活物資はもとより漁業、林業、鉱業の資材、更に樺太に向かう船の燃料の石炭や航海中の生活用品の積み込み等も小樽港で行ったため、 港内はいつも大船で賑った。

更にこの頃、道内の鉄道幹線もだいたい施設され、加えて第1期築港工事も、明治41年(1908)に完了し、 同44年(1911)には手宮に鉄道高架桟橋も竣工する。こうして小樽は、さらなる一大飛躍を遂げる。

以上、新高島町史120〜121ページより抜粋。