手繰網漁法の発展
4. 手繰網漁法の発展

新型(※1)川崎船(4〜6トン、帆走あるいは操櫓で運航)が作られ出すと、しだいに漁場を沖合に求めた。 7海里(13Km)から10海里(18Km)までも沖に出て投網し、初めは数人の手で (後には船首尾につけたロクロ使用)で網を巻き揚げる沖手繰漁法により、夏から秋にかけてはヒラメ、マゲレイ、 11月から2月まではタラ、ホッケ等を漁獲する。

1隻の乗組員は7、8人であったが、全く無動力の時代なので体力だけが頼りであり、過酷な労働であったと言う。決算は毎年6月、 水揚げ高から諸経費を差し引き、残金は漁夫を1としたら、経営者は漁夫の3倍、船頭は同じく1.3倍の割合で分けたというから、 まずまずのところであろう。

関連して明治34年(1901)に第1回北海道議会(議員35人、道人口101万人余)の折、地方税徴収について 陸派(農民代表)と海派(漁民代表)とに分かれ、水産税5割減額について論争を展開し、 長官裁定により1割削減で落ち付いたことは本道開発が漁業から始まり、漸次奥地の開発に進んだ事実から、 始め地方税も漁家に重く、農家に軽かった事実を物語るものである。

こうした間に起こった不測の事故は、明治34年(1901)12月6日の海難事故である。 朝はとても良い凪(なぎ)であったので勇躍出漁した高島・祝津両村のタラ手繰網漁船が、 午後突然来襲した大吹雪、そして大時化に、非難救助の術もなく、8隻が転覆、59名が溺死という開村以来の大惨事となった。 発見された遺体は僅か12体であった。遭難者の霊を慰め遺族を助けるために、村内の有志がきょ金し、正林寺の境内に 「遭難者慰霊碑」を建立した。

今にして思えば、気象予測及び情報伝達技術の不備、無動力の操船、したがって航続能力の不足等に惨事の原因を求めることができるが、 科学技術低発達の当時としては止むを得ぬことだったのであろう。 ちなみに、その年は(1901)20世紀当初の年。米国のライト兄弟が、よちよち飛行に成功したのがその翌々年の1903年。 昭和60年(1985)のつくば科学万博の日帰り見学と思い合わせる時、20世紀は大激変の世紀かと、ますます感慨無量なものがある。

以上、新高島町史119〜120ページより抜粋。
解説

(※1)川崎船

名前の由来は小樽博物館からの聞き取り調査によると
川崎船とは「かわさき衆」が乗る舟のことで、大きさ10メートル前後のものが多い。 五反の帆(ほ)、六丁の櫓(ろ)が一般的です。
なお、「かわさき衆」とは、河口に住み舟で漁を行う集団をさした。