地方自治制への移行
2. 地方自治制への移行
この頃、本道の内陸開拓も、明治20年代の空知・上川から同30年代は十勝・北見方面まで進み、33年(1900)年以降、農業生産高は
水産業生産高を追い抜き、工鉱産業も発展する。
行政においても明治30年(1897)までは帝国議会(への道代表参加)はもとより、北海道会(道議会)すら無く、専制権力化の
植民地的立場であった。
しかし、明治30年(1897)、北海道区制、1級および2級町村制が勅令で公布され、区制は32年(1899)から、1級町村制は
33年(1900)、2級町村制は35年(1902)から施行される。北海道会法は明治34年(1901)から、そして衆議院議員選挙は明治35年から
札幌、函館、小樽の3区から各1名選出ということになり、次第に政治への参加の途も、開かれてゆくことになる。
明治30年(1897)、小樽に集散される海産物は、全道産額の7割を占め、米穀その他、生活物資の移出入も年一年と増加の一途を
たどっていた。だが小樽の港湾は、西南に山を負い、東北に向かって開放されているので
一朝(いっちょう=ある朝・思いがけない時)、北方または東方から風浪が起るならば、船舶の碇泊、並びに荷役に
困難が生じ、良港の実を発揮し得なかったのである。そのため当局者、並びに有志が熱心に運動を起こし、
遂に28年(1895)帝国議会の議決を経て、(※1)防波堤の起工を見ることとなる。
明治30年(1897)11月、郡役所を廃止して小樽支庁を置く。この頃、小樽人口5万6千人。
当時、高島・祝津は4,000人の人口を擁し、戸長事務は小樽支庁で取り扱っていたが、なぜか村民有志の名によって小樽区編入反対の
陳情書が出されている。
理由は、
- 地形上の理由で道路が不備のため、小樽との交通不便、合併しても区民としての権利の受益、
義務の遂行を充分なし得ないだろうこと
- 小樽は商業、高島は漁業で集落の正確に差異があること
などであるが、これは合併によって漁業経営に支障を来たすことを配慮しての結果かとも思われる。当時(明治27年〜36年)は、
全道的にもニシン漁業の最盛期で明治30年(1897)の130万石(97万5千トン)を最高に
百万石時代と言われた時代だったからである。
以上、新高島町史116〜117ページより抜粋。
解説
(※1)防波堤の起工
- 小樽港第1期工事
- 責任者:初代小樽築港事務所長、道庁技師『広井 勇(ひろい いさみ)』
※港湾建設業界では国際的に「港湾工学の父」「日本のコンクリ−トの先駆者」として有名
- 防波堤:北防波堤(厩岸壁から南方へ1,562m)
- 着工:明治30年(1897)
- 竣工:明治41年(1908)
▽小樽市の運河公園にて、広井勇の胸像▽
― 胸像の履歴 ―
・昭和4年(1929)小樽公園に建設
・昭和19年(1944)供出(戦争の武器の材料に使用するため献納)
・昭和28年(1953)小樽公園に再建
・平成11年(1999)運河公園に移設

広井勇 胸像 |

広井勇 略歴 |
- 参考・・・小樽港第2期工事
- 責任者:第2代小樽築港事務所長、『伊藤 長右衛門(いとう ちょうえもん)』
- 防波堤:南防波堤(平磯岬から北方へ816m)
- 着工:明治41年(1908)
- 竣工:大正12年(1923)
▽小樽市の運河公園にて、伊藤長右衛門の胸像▽
― 胸像の履歴 ―
・昭和16年(1941)小樽公園に建設
・昭和19年(1944)供出(戦争の武器の材料に使用するため献納)
・昭和28年(1953)小樽公園に再建
・平成11年(1999)運河公園に移設

伊藤長右衛門 胸像 |

伊藤長右衛門 略歴 |