高島集落の形成と中期移住者
3. 高島集落の形成と中期移住者

この頃、高島郡は、また発展を続けた。明治16年、(※1)日和山灯台点灯、西川漁場のウマヤ沖でのシャケ (※2)大謀網漁が年間350石、祝津白鳥永作氏のニシン粕が水産博覧会で賞牌を受ける等。

そして、明治17年(1884)11月、祝津学校分校として「高島学校」は発足(※3)北高島の民家を校舎とし、男21名、女3名、千田周一受業生に よる指導であったが、村民の喜びは大きかった。よって、この年を「開校記念日」とし、以後10年毎に (※4)記念式を挙げる。

この年、明治17年(1884)は、高島墓地も現位置に設定した。(※5)高島稲荷神社(元禄3年=1690)、 祝津恵比寿神社(安政3年=1856)の建立や、色内町の正法寺(明治初年=1868)、手宮裡の浄応寺(明治13年=1880)の開山と共に、 学校の設立、墓地の設定は一連の『郷土宣言』と了解してよいでしょう。

この頃、高島、祝津も移住が相次ぐ。高島へは越後(新潟)を主として越中(富山)、加賀(石川)からの漁船出稼ぎを経て、家族をあげて 移住定着するという方式が多く、ニシン漁業を主体とする沿岸漁業のみにとどまらず、沖合漁業にも経験を持つ漁民である。

中期移住者は、新潟よりは本間系(宗三郎・由兵衛・寅松・惣三郎の各氏)の他、渡辺系(留作・八十八・松太郎・喜三郎・喜之助の各氏)、 その他、小林徳次郎、平野徳松、上田音次郎、神田乙吉、会田熊次郎、大野豊三、安達広吉の各氏がら移住する。次いで石川県が多く、 八田久左衛門、飯田三吉・トク、越中佐平・キセ、北嘉太郎の各氏が移住、更に福井県より高橋文吉氏、秋田県より佐藤留次郎、 能登三次郎の各氏、青森県よりは西舘円次郎氏、播磨常吉氏らの移住をみる。

高島子ども風土記(発刊:昭和49年)  発刊当時 高島小学校2年 MK様
 今から、だいたい85年くらい前に(明治20年頃=1887年頃)、ひいじいさんたちは、100円たまったら、にいがたへかえるつもりで、 ほをかけた10トンぐらいの「かわさきせん」という舟で8人ぐらいの人が、かわるがわるろをこいで、高島のはまにきました。
 ひいおじいさんたちは、まいにちおきにでて、さかなをとり、ひいおばあさんたちは、とってきたさかなをうったり、 はたけをしたりして、いっしょうけんめいはたらき、お金をためて「はつどうき船」10トンぐらいの舟をかいました。

開校90周年のときに刊行された「高島子ども風土記」は、祖父母、父母、町の古老からの聞き取りによる郷土の歴史の文集であるが、 当時、2年生のMK様の場合は、おばあさんから聞いた、移住以来85年に及ぶ「わが家の歴史」を、要点を外さず大いにがんばって 記述したのには感心させられる。それにしても「100円たまったら、新潟へ帰るつもり」のひいおじいさんが、高島に定住し、戦後、高島で なくなられた事にも開拓者の意気を感ずる。

特異な移住者としては、医師吉田郁氏が鳥取から移住され、この地で開業して村民に安堵感を与えた。

以上、新高島町史108〜110ページより抜粋。
解説

(※1)日和山(ひよりやま)灯台

現在の祝津町、高島岬に立つ、 納沙布岬灯台に次ぐ北海道で2番目の灯台。
当時は、木造の六角形、白色の建物で、二重の芯を使った石油ランプを灯し、 その光は15海里(約28q)先まで届いた言われている。
海上49m、地上7.5m

(※2)大謀網(だいぼうあみ)

大型の袋網

(※3)北高島

現在の1丁目と3丁目の一部

(※4)記念式 (※5)高島稲荷

高島の町のほぼ中央の小高い丘に祀られている高島稲荷神社は、祭神を保食神(ウガノミコト)として 元禄3年(1690)の創立と伝えられている。明治8年には村社となり、大正5年には改築を行っている。 昭和11年5月6日の北高島町の火災で社務所を類焼したが、社殿(本殿)は無事であった。

昭和46年9月、社殿、幣殿、拝殿(32坪)を新しく造営、同時に社務所(80坪)の改築を行う。なおこの時、弁天島に元禄以前から 祀られていたという弁天社が明治29年に神社脇に奉還していたものを、本社に合祀した。 ちなみに、祭神は市岐島姫命(イチキシマヒメノミコト)である。

例祭の7月5日(旧は6月11日)には、神楽舞いが奉納され、町を挙げて漁業の隆盛と海上安全、 商売繁盛と家内安全が祈願される。 以上、新高島町史267ページより抜粋。