明治初期の移住者
8. 明治初期の移住者
明治10年頃(1877)は、本間姓の熊吉・銀太郎・キクの各氏、及び渡辺次郎吉、米田米次郎、スガ、川島珍蔵、島田倉吉、高橋喜一郎、早田芳松の
各氏は新潟県より、その他、石松福蔵は石川県、沢田新三郎は福井県、小笠原常吉は山形県、成田は秋田県、佐藤寅吉は青森県と各氏の
来住を見る。
西川漁場は、秋田県人佐藤与左衛門を支配人として弁天島に建網を1ヶ統増設、祝津もまた移民が増加、加えて鱈の肝臓からの肝油製造、
昆布からのヨードの製造などの加工も研究され、村はしだいに活気づき、明治15年斎藤文六、本間キクが新潟県から移住する。
明治15年(1882)には、高島郡の人口が2,914人となり、初めて高島郡漁業組合(色内〜祝津)が結成され、
佐藤与左衛門が頭取に就任する。漁業者134人、漁夫雇1,541人、建網72統、刺網2,690枚、舟506隻がそのころの数字である。
祝津村の白鳥永作氏は実績を買われて高島郡の総代に推薦され、医師菊地栄三氏も明治13年(1880)、祝津で開業する。この頃、高島に
小田質店ができたのも、また現金取引に移行してゆく時代の反映であろう。
寺院も(※1)光雲寺が明治10年代に開設された。
(註:明治3年(1870)貨幣制度改正、円・銭・厘の十進法とし、新貨幣鋳造、明治4年(1871)より紙幣も発行。)
以上、新高島町史104〜105ページより抜粋。
解説
(※1)光雲寺
積善山光雲寺
- 住所:小樽市高島5丁目
- 宗派:浄土真宗本願寺派
- 本尊:阿弥陀如来
- 開教:明治10年年代(不詳)
- 寺号公称:昭和23年
- 開基歴代住職
当時の開基は明治10年代にさかのぼるが、古い記録は大正8年の大火で大方が焼失したため、現在では当時を知るてがかりがない。
言い伝えによれば、旧北高島の山手に本願寺小樽別院の高島説教所として発足したものとみられている。
その当時のニシン漁には本州(主に東北、日本海方面)からの出稼ぎが多く、漁期が終るとまた本州へ帰るため、永住者はごく少数で
寺の檀家も少なく、在住した住職も生活苦のため、たびたび無住となり、少数の門徒が御本尊をお守りしていたという。
この寺の回りには春には水仙が無数に咲くので「水仙の寺」とも呼ばれていた。また、小学校が開校するまでは、
寺子屋として高島の子供たちの教育の場として利用された時代もある。
大正8年に現光雲寺の開基である北条恵雲が入寺して布教に勤め、その後、単立の西本願寺高島説教所として更に布教に専念し、
大正14年、現在地に移転、昭和23年に光雲寺の寺号公称を許されて現在に至っている。
以上、新高島町史281〜282ページより抜粋。