黒田長官大砲事件
6. 黒田長官大砲事件

明治9年(1876)7月30日、祝津沖合を航行中の時の北海道長官、黒田清隆が乗った開拓使船「玄武丸」が、実弾の射撃試験を行ったのである。 ところが、その標的である赤岩の岩頭を外れ、祝津村民、斎藤清之介氏の漁舎(現在の祝津3丁目178番地)を直撃し、この家の娘 「多津与」の両足に重傷を負わせ、ついに、死亡させてしまったという事件である。世に『黒田長官大砲事件』と呼ばれている。

祝津町のある古老住民が補足して語るところによれば、外にあった釜場(ニシン粕をたく釜)に落ちた砲弾の破片が母屋に飛び散り、 娘の多津与に当たったとのことである。玄武丸より手当ての者が来て多津与の手当てをしたが出欠が止まらず、医師も来て脚部を 切断しようとしたが、あえて応急手当に止どめたため、不幸にもその日のうちに死亡した。

黒田長官は、この発砲事件の罪を船長に科し、罰金(※1)100円に処している。また、同艦の監督に対して追徴金40円を科して、 これを埋葬費として遺族に渡し、一応の落着をみた訳である。しかし、開拓途上に供された犠牲としては余りにも過大であり、 開拓長官に対する司法権委任掌握の弊害の一つとして、歴史上に記された禍根の一頁である。

以上、新高島町史100〜103ページより抜粋。
解説

(※1)100円

その当時、最低限の食事が1食10銭と言われていたようで、100円は1人当りの1年分の食費に値すると思われる。