開拓行政の展開
5. 開拓行政の展開
明治8年(1875)、(※1)立憲政体確立の(※2)詔書の出た年であり、千島、樺太交換条約の成立した年でもある。
後者は、安政元年(1854)の日露和親条約により、千島はエトロフ島以南は日本領、ウルップ島以北をロシア領とし、樺太は両国共有の
雑居地としていたものを、黒田清隆の建議(けんぎ=意見の申し立て)に基づき、ロシアと交渉の結果、
「樺太全島はロシア領、千島全島は日本領とし、日本人のオホーツク海、およびカムチャッカにおける漁業権を認める。」という、
いわゆる、千島・樺太交換条約が成立した。
同年、北海道では最初の屯田兵が琴似に入植し、更に小樽では新政府から買い入れた汽船玄武丸によって、東京・函館・小樽間の
定期航路(毎月一回往復)は始まる。時に全道の人口は約18万人、小樽は約5,200人。ようやく断髪令が普及し、
官員の洋服、巻きタバコ、官公庁の洋館も見られるようになったころである。
これより先、明治6年(1873)に、開拓使学務局から教育所設置の布達(ふたつ=官庁などが広く一般に知らせること)が出た。
これにより同年、小樽郡教学所、高島教学所(手宮村)、翌7年(1874)には銭函・忍路、
そして9年(1876)には塩谷・張碓・朝里・祝津と沿岸部落での
開設が続く。高島教学所は、後に手宮学校となり、現在の色内小学校の前進となる。
小樽郡教学所は現在の量徳小学校の前進で、「郡立」であるため、後志管内の中心校として教員養成も兼ね、
規模、内容、共に堂々たるものであった。
「村立」の場合は、設立や維持も、すべて村民の寄付金と賦課金(ふかきん=税金からの割り当て金)を主体とした。
それで各村落とも、初めは旧会所や官有物の無償払い下げを受けたり、民家を購入したりして校舎に充てることが多かった。
祝津校の場合は、建網業者等級割、川崎船所有者割、ニシン漁業雇夫割等によって賦設したようである。
明治10年(1877)、量徳学校の分校となり、同14年(1881)、祝津学校と改称し、
明治17年(1884)11月高島に分校を設立する。
以上、新高島町史99〜100ページより抜粋。
解説
(※1)立憲政体
憲法を定め、司法・立法・行政の三権を分立させ、議会を通して国民が政治に参加する政治体制
(※2)詔書(しょうしょ)
天皇のことばをしるした公文書で、一般に公示されるもの