高島・祝津の発展
4. 高島・祝津の発展

北海道の開拓は、まず日本海側、道南、日高の沿岸地域の漁業に始まった。 更に江戸時代末期の嘉永(1848〜1854)、安政(1854〜1860)以降、特に発達した諸国からの交易船は、 大阪〜小樽は年に一度ぐらいであったが、東北航路(敦賀〜小樽)は年二航路は可能で、 日常生活必需品と海産物の交易のため、弁財船の往来は比較的頻繁であった。しかし、冬期間は欠航し、 酷寒と激浪、そしてヒグマの横行する北海道への移住については、相当の決心を必要としたことであろう。

漁民の移住類型については、「漁夫出稼ぎ」と「漁船出稼ぎ」および、その他に基づくものとに分けられ、 出身地は北陸沿岸が多かった。

この間、小樽は明治2年(1869)には手宮に海官所、明治5年(1872)には信香に常夜灯・小樽郵便施行・手宮港を小樽港とし、 続いて明治6年(1873)には色内に石造埠頭、そして明治7年(1874)は札幌間の電信開通と文明開化を進め、 翌年、明治8年(1875)には人口も5,000人を越す。

高島郡もまた若干の移住者を迎えてニシン漁業に前進を見せ、建網、刺網共にその数を増し、漁獲高も向上する。 なお、開拓使の指導によりニシン粕の製造に当たり、薪の代わりに石炭を用いて経費の節約、能率の向上を図るなどの指導も 行われた。 ニシン漁期以外は沿岸漁業として魚介、さらには鱈釣りの出漁も行われて、 明治8年(1875)における住人は明治2年(1869)と比べ、高島村は世帯数8戸増、人口42人増となる。

小樽市佐野森三氏所蔵「明治8年(1875)4月調 後志国高島郡」 高島村の増は、本間要之丈氏(新潟)、小田兼吉氏(新潟)、船橋宗吉・トミ氏(秋田)、本間新左衛門氏(新潟)、 他は石川、福井、山形からの初期移住の方々によるものであろう。 祝津村は青山家(青山別邸)の初代留吉氏は明治6年(1873)、山形からの来住である。 まだ西川漁場が主であるが、両村とも建網、刺網の数も増し、生産高も次第に増加してゆく。

以上、新高島町史98〜99ページより抜粋。