開拓使の開拓方針
3. 開拓使の開拓方針

明治3年(1870)末、開拓使次官黒田清隆の定めた北海道基本方針は、
  1. 石狩に本府を置き、大臣クラスの者を総督(長官)とすること。
  2. 開拓は順序を追い、官吏(かんり=役人・国家公務員)を減じ、税を低くし、 アイヌを撫育(ぶいく=かわいがって大切にする)、 漁猟は従来の法により、渡島国・東北の寒さに慣れた人民を移住させること。
  3. 風土の適当な外国より、熟練者を雇って基礎調査をし、開拓計画に資する (しする=助けになる・役に立つ)こと。
  4. 留学生を海外諸国に派遣すること。

そして、明治4年(1871)末、ホラシ・ケプロン以下の米国人顧問を招き、開拓を進めていく。

「ケプロン報文」においての開拓の基礎事業としては、
  1. 気象実測、地形・地質の検査
  2. 測量、土地区画
  3. 車道開設
  4. 運送利便と運賃の改革
  5. 衣食住の改革
同じく、産業政策としては、
  1. 農業換種法の多様化、家畜の飼育、西洋農法と器械の導入
  2. 木材の加工(建築・鉄道資材・家具)
  3. 漁業制度の改革、魚族の養増殖、缶詰等の製造法の導入
  4. 石炭の開発 機械化 工業化

もっとも重要なのは移民の招致であった。

開拓使は明治2年(1869)の発足にあたって東京都に募集を依頼し、数百人を根室、宗谷、樺太に移民させている。 明治3〜4年には東北地方からの農民を札幌周辺に入植させている。 これらの募集移民には、旅費、支度料、家作料、扶助米、農具などを支給して保護した。 道東の漁場持も、この頃、東北・道南から漁民を募集して移住させた。

明治7年(1874)以降の屯田兵制による開拓も進み、 明治10年(1877)頃より旧大藩主が北海道の広大な土地を入手し、貧しく困っている人達を移住帰農させる例も相次いだ。

以上、新高島町史96〜98ページより抜粋。