明治2年の高島・祝津の初期住民
2.明治2年(1869)の高島・祝津の初期住民

その当時の「場所持」である西川家 高島場所支配人 長谷川久八が明治4年(1871)6月、開拓使小樽仮役場に提出した 「高島郡御請負中諸調書」には、下記のように明治2年(1869)当時の概況が記されている。

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右図は明治2年(1869)高島・祝津漁場拝借地調(町史94ページより)である。

右下、(現在のバス通沿い)にある四角いマークは高島漁場運上屋があったところで、現在は石谷牛乳店付近である。
その付近に漁場拝借人として名前を連ねているが、その人達の出身地は新潟・北陸沿岸か、道南辺りと思われる。 苗字が許されたのは明治3年(1870)9月、戸籍法の公布は同4年(1871)4月だったため明治2年(1869)当時は名前だけである。

元運上屋中カ一西川家漁場は、ニシン、シャケ、マス、タラなどの漁で大きく繁栄を続けていた。 それに比べ一般漁家は、一夫婦単位で掘立て小屋に住み、漁船・漁具は小規模で、資金も乏しく、通信・交通・運輸の不便な当時は 何かと「場所持」に頼ることが多かったと予想される。
図の右上表でも分かるとおり、明治2年(1869)の13戸44人が高島の初期住人で、 以後、主に東北・北陸からの移住が続き、村落に発展していったのである。

以上、新高島町史93〜96ページより抜粋。