維新の北海道
1. 維新(1868)の北海道

明治、それは大革新、そして大きな建設の時代であった。 後進国日本を欧米並みの近代国家に造り上げるため、 殖産興業・富国強兵を押し進め、懸命の営みが続けられる。 こうした中で、蝦夷地の開拓は、北方領土守備のためにも、殖産興業・民生のためにも、 緊急かつ重要な国策のひとつであった。

明治2年(1869)7月、開拓使が設置、同年8月、松浦武四郎の意見により蝦夷地を北海道と改め、11カ国86郡を置いた。 我が高島郡(オコバチ川〜オタモイ)は、小樽郡とともに、翌3年(1870)、開拓使所管となる。

漁場は、これまで(※1)場所請負制度で行なってきたが、 明治2年(1869)9月開拓使の布達(官庁などが広く一般に知らせること)で廃止の命令が下った。 しかし、一挙に廃止しては不都合もあったため、当分、(※2)場所持と名称を変え、 今までどおりの漁場経営を、ある程度認めた。

以上、新高島町史92ページより抜粋。
解説

(※1)場所請負制度

明治以前の北海道では領地を持っていた松前藩主がアイヌとの交易を保証されていた。 そして、藩の経済的維持は、この交易による利益によるものだった。

しかし、武士が行なう商いは経営者としての資質に欠け、利益を生み出すことは困難であった。 そのため、武士に代わり経営感覚の優れている商人(大富豪)に、交易を委託することが多くなってきた。 その商人に与えた区域を場所と呼び、その場所の責任者を場所請負人と呼んだ。

場所請負人は、アイヌや和人を雇用して生産にあった。 請負人は利益の中から幕府に対し運上金と呼ばれる請負金を支払わなければならず、 できるだけ利益を生み出すために不当労働を強要したり、詐欺まがいなことも行なわれていた。 場所請負人は場所の区域内では相当な権力者であった。

(※2)場所持

明治政府は開拓使の設置と同時に場所請負制度の廃止を宣言した。 漁場を移住者に開放し、移住者の自主経営を定着させようとしたのである。

しかし、旧請負人達の圧力により、ただ単に場所持と名称を変えただけであった。 その当時の北海道は場所請負人の力が絶対的なものであった。 明治政府にとっても北海道の開拓のためには場所請負人の力が必要だったのである。