
明治の初め、請負人は漁場持として名を変え、明治10年以降、漁場が希望者に割渡され着業者が増えました。
ニシン漁獲量は明治になっても増加し、開拓史による魚粕製造の推奨や、行成網から更に漁獲効率の良い角網への変換もあって、
明治30年頃には100万石時代を迎えます。
東北や道南地方から、多くの入り稼ぎの漁夫(ヤン衆)が来村、定住し、母村の文化も伝えました。ニシン漁期だけ滞在する
漁夫を収容するための広壮な番屋建築が建ち並び、北海道独特のニシン場の風景が各地に見られました。
追ニシンとして北海道に出稼ぎして漁業を行っていた人々は母村と漁場とを行き来していましたが、次第に自分の漁場に
定住する者が増えました。定住した建網漁家は、雇用した漁夫を収容するための板の間(漁夫留まり)を設けた住居を建築しました。
漁夫の雇用契約は12月から1月にかけて漁業経営者や漁夫募集従事者が代理人となって行なわれました。
漁夫募集従事者は雇主より漁夫給料の5%相当、および各漁夫からも収入の5%相当を斡旋手数料として受け取っていました。
また、船頭が漁夫募集従事者となる場合にも、それに関わる収入を雇主から得ていました。
給与制度は給料・九一金(漁獲高の9割が親方、1割は漁夫)・諸手当でなりたっていました。おおむね契約時に給料の8割程度が前金として貸与され、
残金は漁期中のタバコや消耗品の購入などに充てられ、漁期終了時に清算する方法が取られました。
にしん場で仕事をする漁夫は毎年同じ漁場に来る人が多く、船頭・下船頭・起し船頭などが幹部(役人)といわれました。

右画像:旧余市福原漁場番屋の「親方家族の部屋」
番屋とは親方の家族達が住む所と、漁夫達が泊まる所と半々位の大きさです。
大きな番屋では3ヶ統位の漁夫(約90人)が寝泊りできるように寝台を多段にしたところが多いです。
番屋の大きさは小さいもので60坪から、大きいもので200坪もある建物も少なくはありませんでした。

左画像:旧余市福原漁場番屋の「台所」
漁夫の主食は米で、漁の最盛期は1日3〜5回くらい食べました。
副食はタクアン漬やニシン漬等の漬物、ニシン漬を馬鈴薯やササゲ豆と煮た三平汁、ニシンの塩煮、キャベツの菜類等。
味噌・醤油はあまり使用しませんでした。

右画像:旧余市福原漁場番屋の「漁夫食事場所」
「いろり」は親方の部屋に1ヶ所、漁夫の部屋には2ヶ所ありました。
親方の部屋の「いろり」は中央にあり、神棚を背にして親方が座りました。
漁夫の部屋の「いろり」は中央近くに二つ適当に離して作ってあり、船頭から役付の者の席があり、漁夫は外側の席でした。
「いろり」の上には、天井から吊るした「火棚」という細い板材を組んだ「つり棚」がありました。
ぬれた手かけや、きゃはん、足袋などを掛けたり、吊るしたりして乾かしました。