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高台寺踊りの由来 はじめに 小樽市高島在住の斉藤正博様より「高島越後盆踊り、高台寺踊りについて」の資料が提供されました。 なお、当資料は主に歴史小説家、津田三郎氏 著「新潟県 北蒲原郡 紫雲寺町 藤塚浜の高台寺踊りに ついて」を参考に、斉藤正博様がまとめ上げたものです。 また、当ホームページの 「高島越後盆踊り平成16年」も合わせて参照下さい。 |
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高島越後盆踊り「高台寺踊り」について 明治の初期、それ以前から、高島には越後からの移住者がいました。 盂蘭盆(うらぼん=盆)になると櫓(やぐら)が立ち、日暮れになると人々が集い、故郷に想いをはせ、 祖先の供養をし、素朴に楽しんだのが越後盆踊りでした。 娯楽の少ない時代です。最大の楽しみだったことでしょうし、若い男女の出会いの場でもありました。 高島越後盆踊りの発祥の地と言われる、「新潟県 北蒲原郡 紫雲寺町 藤塚浜」が、明治19年5月、 村の3分の2を消失する大火事がありました。 家を失った藤塚村の人達が多数、移住してきました。高島越後盆踊りは、ますます盛大に行なわれる ようになりました。 高島越後盆踊りは、笛と太鼓、《鉦(かね)を鳴らすことあり》の囃しだけの時と、盆歌を歌っているときの 踊りが異なります。 前者、歌の歌ってないときの踊りを、「高台寺踊り」といいます。 豊臣秀吉の正室(せいしつ=身分の高い人の正妻)の北の政所(まんどころ)高台院が、徳川家康の 援助で建立した京都の名刹(めいさつ=由緒ある名高い寺)「高台寺」に由来しているのです。 越後の盆踊りが、なぜ、「高台寺踊り」というのか、疑問に思う人もいるでしょう。 京都在住で高台寺の相談役、歴史小説家 津田三郎氏の説は、以下の通りです。 堀 秀政、堀 直政、堀 直寄については、私(斉藤正博様)が調べた記述もあります。 |
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歴史小説家 津田三郎氏の説 (以下、斉藤正博様の資料の写し)
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管理人による要約 ■人物紹介■ ・堀 秀政(1553〜1590) 織田信長に仕える。戦の功績により1585年、越前北の庄(福井県)18万石を与えられ藩主となる。 ・堀 秀治(1576〜1606) 越前北の庄(福井県)藩主堀 秀政の子。父の死後、藩主となる。 1598年、「豊臣秀吉」は、それまでの「越後」の藩主、「上杉景勝」を会津へ移し、 越前北の庄から堀 秀治を越後の藩主に命じる。 ・堀(奥田) 直政(1547〜1608) 「高台寺」建築工事の中心人物! 堀 秀政とは従兄弟関係。 「奥田直政」として「織田信長」に仕えていたが、縁戚関係により、堀 秀政に属し、 「織田信長」没後、「豊臣秀吉」に従う。 1585年、堀 秀政が近江から越前北の庄に移ると、奥田直政もこれに従い移る。 同時に藩主堀 秀政より「堀」の姓を賜り、堀 直政となる。 堀 秀政没後、越前北の庄の次の藩主堀 秀治を補佐する。 その後、藩主堀 秀治と共に越後へ移る。 |
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| 堀(監物)直政宛ての豊臣秀吉朱印状 直政を豊臣家が領する越後国の布産地の代官に任じたもの。 合わせて五千石の「御蔵入地(くらいりち)」が彼に預けられた。 |
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| 資料提供:京都市 高台寺様 ありがとうございました。 |
| 1600年、関ヶ原の戦い終息後、「徳川家康」に仕える。 |
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・堀 直寄(1577〜1639) 「高台寺踊り」誕生の主役となった人物! 堀 直政の妾(めかけ)の子(腹違いの子)。 堀 直政の正妻の子より才能があった。 「豊臣秀吉」の小姓(こしょう=将軍の身辺の雑用を務める)となり、 北ノ政所(きたのまんどころ=豊臣秀吉の正室・正妻)にも可愛がられた。 父堀 直政没後、お家の内紛により、妾の子、堀 直寄は、堀家から追放される。 その後、父堀 直政の正妻の子、直次が失脚し、堀 直寄は信濃飯山の大名に復帰、 戦の功績などにより、長岡藩主として、のちには現新潟県北部の村上藩主として 越後に返り咲く。 ■高台寺建立■ 豊臣秀吉の正室である北の政所(高台院)が秀吉没後、その冥福を祈るため建立した。 北の政所が高台寺建立にあたり、徳川家康は堀(監物)直政を普請(禅寺の建築に従事すること)係に 任じ、北の政所を支援させます。 堀(監物)直政は藩主堀 秀治とともに秀吉に仕え、今日あるのも秀吉の恩顧によるものと、報謝を 胸に普請に助力したといわれています。 1606年、高台寺が落慶します。 ※下記サイトを参考にして下さい。 ![]() 高台寺■堀(監物)直政の死■ 高台寺の落慶後、越後に戻った堀(監物)直政は、その2年後(1608)に病没します。 遺骸は荼毘に付され、遺言によって高台寺に埋葬されます。 北の政所は、夫秀吉をして天下の名陪臣(大名の家臣の称)と称えられ、高台寺の創建に尽力した 堀(監物)直政の死を心から悼んでいたのでしょう。高台寺に、位牌と木造彩色座像を祀ります。 |
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| 堀(監物)直政の木造彩色座像 | 堀(監物)直政の木造彩色座像 |
| 撮影と画像掲載にあたり京都市 高台寺様より承諾をいただきました。 ありがとうございました。 |
撮影と画像掲載にあたり京都市 高台寺様より承諾をいただきました。 ありがとうございました。 |
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■高台寺踊り■ 1624年、北の政所が高台寺で病没します。 堀 直寄は、この訃報に誘発され、村上の領内に、父堀(監物)直政の菩提を弔い、堀家の菩提所として、 1627年に英林寺を建立します。 『このころから、この英林寺の境内で盆の季節が来ると、父堀(監物)直政と、自分の関わりの大きい、 豊臣秀吉・北の政所に敬慕と哀悼の思いを込めて、創めたのが高台寺踊りではないかということです。』 ※下記サイトを参考にして下さい。 ![]() 英林寺越後の地にいて、京都の高台寺と深く結ばれていたのは、堀(監物)直政と、その子直寄の2人であった のです。 津田三郎氏の説によると、今から380余年前に高台寺踊り(越後盆踊り)が踊られるようになったと いうことになります。 ■管理人出張報告■ 2010年1月2日、京都市高台寺を訪問し、事務長の間宮様よりお話を伺いましたが、 高台寺には、「高台寺」と「高台寺踊り」を関連付ける所蔵品は存在しない、ということでした。 (間宮事務長様、ありがとうございました。) 残念ですが、今後も津田三郎氏の説をもとに調査します。 |
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