初代小樽築港事務所長
『広井勇
(ひろい いさみ)
』
(1862−1928)
橋梁、港湾工学の世界的権威で足跡は遠く海外でも残されています。
その広井勇が命を掛けて臨んだのが、明治30年5月9日に始まった小樽港湾第一期工事です。
波の荒い外海に本格的な防波堤を建設する、わが国、初めての試みでした。
― 広井勇の独創的技術 ―
・広井式波力測定公式 P=1.5woH
Pは波の力 woは海水の比重 Hは打ち寄せる波の高さ
波の高さに海水の比重を掛け、1.5倍したのが波の力というこの式は、昭和50年頃まで全国の防波堤の設計に利用されていました。
・火山灰を混ぜたコンクリ−トの製造
当時、防波堤のコンクリ−トブロックは、すぐに亀裂が発生するなど非常に不安定でした。
広井勇は小樽北防波堤の建設で、セメントに火山灰を混ぜることで、この問題を解決しました。
この技術はドイツで開発されたものですが、防波堤工事に使用されたのは、世界で初でした。
・コンクリ−ト強度の長期試験
明治20年代後半は、コンクリ−トについて分らないことが多くありました。
これを解明するため広井勇はコンクリ−トの小さな塊(テストピ−ス)をいくつも作り、
それが時間(歳月)とともに、どのように変化するか調べる試験を始めました。
デ−タの解析は100年を超えた今でも小樽港湾建設事務所で行なわれています。
・小樽北防波堤の構造
広井勇は外海の波が荒い小樽港に防波堤を建設するにあたって、コンクリ−トブロックを斜めに積み重ねていく方法をとりました。
防波堤の端のブロックが荒波にもまれて抜け落ちるのを防ぐためです。
わが国でも初めての試みでした。
― 広井勇物語 ―
明治は近代港湾の建設において暗中模索の時代であった。
横浜港をはじめ、国内各港の工事が失敗に終わる中、その築港技術の確立が急がれていたのである。
そのような中、広井勇の小樽築港の計画案が政府(日本帝国議会)に認可される。
北国の厳しい自然の中、築港工事の問題点を広井勇がどのように打開していくか、全国の関係者が注目した。
こうして明治30年5月9日、北海道庁技師広井勇が指揮する小樽港湾第一期工事(北防波堤建設)が、
当時の国家予算200余万円を投じる大規模国営工事として着工した。
この時、広井勇は35歳であった。広井勇は数々の独創的な施工方法で関係者を驚かした。
それは現代でも十分通用する程のものだった。
工事は順調に進むかに見えた。しかし、思わぬ試練が広井勇に襲いかかる。
明治32年、冬の嵐が工事中の防波堤を直撃したのである。次々と資材も設備も押し流された。広井勇は自信を失いつつあった。
嵐が治まる頃、広井勇は意を決し、失敗したときの責任をとるため自決用のピストルを懐にしのばせ、港へ着いた。
そこに見たものは、見事あの暴波浪に耐えぬいた防波堤であった。
その後、日露戦争の影響を受けつつも、明治41年5月に竣工、現在に至る。
広井勇は晩年、波力発電の研究も進めた。
広井勇博士の銅像は昭和4年、小樽公園に建立されたが、平成11年、港の近くの小樽運河公園に移された。

広井勇 胸像 |

広井勇 略歴 |