『高島診療所守り半世紀 渡辺太郎さん』
(北海道新聞2006年3月14日夕刊 小樽報道部 山本陽子様の取材記事より)
古い洋館と時代を感じさせる待合室。黒い往診カバンにも年齢が刻まれていた。
潮風がどこか懐かしい小樽市高島の小さな診療所で、医師渡辺太郎さん(84)は、地域の人たちを守ってきた。
この地にやって来て、ちょうど50年。「高島の風になじんじゃったんだよ」と言う。
そんな先生を、高島の人たちは親愛と尊敬を込めて、タロさんと呼ぶ。
「雪かきで腰痛めてさー、タロさん」「心臓がバクバクする。先生、どうしたもんだか」
タロさんの診療所に、この日もお年寄りがやって来た。
タロさんは顔を寄せ、話に耳を傾けながら、聴診器を胸に当てる。
「久しぶりじゃない。どうしたの」「無理しちゃ駄目だよ」。
語りかける口調が温かい。
札医大の医局から小樽市立高島診療所に赴任したのは1956年6月。
旧高島町が小樽市と合併するまで役場として使っていた木造の建物が診療所だった。
当時34歳。裸電球がぶら下がる、薄暗い診察室の真ん中には大きな火鉢。
往診に行くと、「おめぇ、どっから来た」と漁師の大声が返って来た。
早く札幌に帰りたい、と思った。
だが、言葉は荒くても、高島の暖かな心はタロさんに伝わった。時を経るごとに離れがたくなった。
赴任して7年、市立の診療所は閉鎖されることになり、タロさんは700万円を工面して診療所を買い取った。
掲げた看板はこれまでと同じ「小樽高島診療所」。
「高島が好きだから。自分の名字なんて、考えもしなかった。婦人科以外なら何でも診てきたよ。
みんな人っこいくてね。楽しいね、ここに座っているのが。50年、そんなになるかな」
1日100人以上の外来患者が押し寄せた時代もある。
入院も受け入れ、呼ばれれば夜中も往診した。
うわさを聞きつけ、積丹から通院してきたおばあさんや稚内から治療を受けに来た漁師も。
高島の大坂ミツさん(81)は股関節の治療のため今も毎日、診療所に通う。
「タロさんが若いときから、何かあったらここ。3人の子どもも、ちゃっこいときに世話になった。
いい先生だ。1人でも安心して暮らせるのはタロさんのおかげ。いなくなったら困るよ」と、先生に視線を向けた。
地域医療にかけた情熱は多分、自らの人生から生まれている。
子ども時代を室蘭で過ごした。家は貧しかった。母はなぜか、「医者になりなさい」と言い続けた。
1939年(昭和14年)、現在の北大医学部に入った。
勉学を続けるため、奨学金のようなものが受けられる陸軍委託学生となった。
軍医として旧満州(現中国北東部)で敗戦を迎えた。待ち受けていたのは過酷なシベリア抑留だった。
栄養失調や病気、疲労で仲間が死んでいった。薬もブドウ糖もない。
死に行く仲間を涙をのんで置き去りにするしかなかった。
自らも体力、気力を失い、生死の境をさまよった。
「夢の中におふくろが出てきて体中をなでてくれた。死んだらだめ、しっかりしろって声が聞こえてね。
それで、負けるもんかって。」
学校の月謝のため、金策に走り回った母がまた、助けてくれた。
市の歴史的建造物にも指定されている築70年の診療所は、暖房費もかさむ。
高島の人口はこの20年で1500人減って3900人となった。
「毎月、赤字。でも自分が誰かの役に立っているのなら、このまま続けるよ。
青春がなかったボクにとって、今が老春」とタロさんは笑う。
こんな先生を最先端医療の世界にいる札医大付属病院の島本和明病院長(59)は
「あの年齢で1人で地域を守っていらっしゃる。地域医療の原点を見る思いがします」と、敬意を込めて語る。
島本さんも高島で育った。黒い往診カバンを持って、高島を歩く先生のことが目に焼き付いている。
「今も同じ医師として、私を見守ってくれている。
高島にとっても、僕にとっても、なくてはならぬ人なんです」